外伝「ともだち」

 あの頃、わたしは一人ぼっちだった。幼稚園なんか嫌いだった。

 物心ついたときから、わたしは綾音川家の一員として、綾音川のレディとして、その名に恥じないようにと躾を受けてきた。礼儀作法にのっとった優雅な立ち居振舞い、言葉使い。「知性と気品は、その内からにじみ出てくるものです」と、教育係のリッテンマイヤーさんはよくおっしゃったものだった。わたしが教えられた通りに振舞うと、周りの大人は皆わたしを誉めた。わたしは、周りの人たちを喜ばせたい一心で、努めてそうした振る舞いをしてきたものだった。

 でも、それは、お友達を作るのには何の役にもたたない。

 初めて幼稚園に行った日のことはよく覚えている。わたしは、そこにあふれている活気に圧倒されそうになった。広い運動場のなかに、所狭しと自分と同年代の子供が走り回っている。それまで、静謐さに満たされたお屋敷と、整えられた庭園が遊び場だったわたしにとって、その喧騒に満ちた活気は息苦しくすらあった。もちろん、こんなにたくさんの、同い年の少年少女がひとところに集まっているところなど、見たことも無かった。そもそも、同い年の友達なんて、いなかった。知り合う機会すらなかったのだから。

 それでもわたしは、期待に胸をふくらませていた。ここに通っていれば、「おともだち」が沢山できるのだ。

 わたしは、こちらを見ていた数人に向かって話し掛けた。お友達になろうと。いつも周りの大人にするように。いつも誉めてもらっていたあの話し方で。

 彼らが戸惑った目つきをして、ついでわたしの――彼らにしてみたら珍妙きわまりない――話し方を種にひとしきり笑い転げてから、わたしを置いて遠くへ駆けていったとき、その後何回も覚えることになる胸の痛みの、最初のうずきが、わたしの胸を締め付けた。

 わたしが幼稚園を嫌いになるのには、それほど長い時間はかからなかった。綾音川家の令嬢だからと、わたしだけを特別扱いする保母さんも嫌いだった。話し掛けるたびに、わたしを笑いの種にして去っていってしまう「おともだち」にも悲しい思いをした。
 悪いのはわたしの方だったのだろう。彼らにしてみてみたら、わたしとどう接してよいのかも分からなかったのだ。一言「あそぼう」とすらいえない自分にも腹が立った。わたしは、他の子達と、何をしてあそんだらよいのか、それすらも分からなかったのだから。

 わたしは本に慰めを見出した。

 遊戯室の片隅に、ぽつんと、おきざりにされたような本棚があった。元気あふれる周りの子達は、雨の日ですら、その本棚に並んでいる本に手をつけようとはしなかった。わたしはといえば、晴れた日ですら、毎日その本棚の前で本を読んで過ごしていた。ぽつん、と。わたしがいつも家に帰ってから読んでいる――読まされている――本に比べたら、その内容は素朴に過ぎたが、かえってそれがありがたかった。小さな本棚の本をすべて読んでしまっても、わたしはそこで何度も同じ本を読みつづけていた。他にすることはなかったから。

 あの頃は本当に、寂しかった。

 そんなころだ。あの子と出会ったのは。

 わたしはいつものように、膝に絵本をのせて眺めていた。何度となく読み返した本で、もうしっかりと読む気もなくしていた。そのとき、すぐ隣に、すとんと誰かが座り込んだ。
 顔を上げたわたしの目に飛び込んできたのは、おさげの女の子だった。ぱっちりとした目と、黒くて深い瞳が印象的だった。奇妙なのはその子の着ている服だった。普通の子が着ているような服ではなく、ましてやわたしが着ているようなドレスでもなく、着物だったからだ。いいえ、違う、とわたしは思う。白い羽織物に赤い袴…前にこれと同じ物を見たことがあった。そう、これはたしか巫女の装束だ。
 巫女の格好をした女の子が訊いてくる。

「なにを読んでるの?」
「イアン・ジューリコフ作『ウサギとさびしい木こりの子』」

 わたしはそっけなく答えた。また胸の痛みを覚えるようなことになるのが嫌だったからだ。当時のわたしは、それほど人と係わり合いになるのを避けていたのだ。
 その子はちょっと困ったような笑顔を浮かべた。

「うーん、読んだことないや…えへへ」
「そう」
「えーっと、でもこっちの絵本は読んだことあるよ。さこかとし作『こけしちゃんとてんしちゃん』。わたし、この本好きなの。こけしちゃんもてんしちゃんもかわいいから」

 その子が偶然にその絵本を選んだにせよ、わたしは嬉しかった。わたしも好きな絵本だったから。

「あなたも?わたくしも好きなの、この絵本。さこかとしの絵本は、ここで読んで知ったのだけれど、どれも素敵ですわね」

 そこまで話したところで、自分が、いつも馬鹿にされてきた口調で話してしまったことに気が付いた。けれど、その子は気にするそぶりも見せなかった。

「そう思う?わたしもそう思うの。絵が怖い、って言う子もいるけど、わたしは好きだなぁ。なんだか、やんちゃな感じがして」

 わたしも同じ意見だった。この作者の絵本の中に出てくる子供たちは、みんな弾けそうなほど元気だ。できることなら、こんな風にみんなと息が切れるまで駆けずり回って楽しみたいという、わたしの願望そのままに。

 絵本の話を取っ掛かりに、その子との話は次第に弾んだものとなっていた。その子はよく笑い、よく微笑んだ。不思議な子だった。なんと言えばいいのだろう。その子が微笑むと、何でも素直に話せた。その子が笑うと、つられて笑っているわたしがいた。幼稚園に入ってから今までで、一番楽しいひと時だったかもしれない。わたしたちは他愛ないことで笑い転げ、すっかり打ち解けて初めて、互いの名前すら知らないことに気が付く始末だった。

「あっ、ごめんごめん。えーとね、わたしの名前は、斎(いつき)りり。みんなはりりたんって呼ぶの。とうさまやかあさまもそう呼ぶんだよ。おかしいでしょ」
「りりたん…ですか?」
「うん。りりたん」

 何故だか、この子にはとてもお似合いの呼び名に思えた。

「それでね、んーとね…あなたの名前は?」
「あら、すいません。わたくしの名前は、綾音川…ユウと申しますの」
「ユウちゃんかぁ…いい名前っ。なんだか…優しそうな感じの音だね」
「そ…そうですか?」
「そうよ。ね、ユウちゃん…。ふふっ」

 ユウちゃん、などと呼ばれたことも初めてなら、その名前を「優しそうな感じ」などと言われたのも初めてだった。不思議な気分だった。お父様やお母様、お爺様は、わたしのことを「ユウ」と呼んだ。そして、他の人は全員、わたしのことを「お嬢様」と呼んだ。知り合ったばかりの人に、親しみを込めて「ユウちゃん」などと呼ばれたのは、これが初めてだった。
 嫌ではなかった。

「それで、あなたのことはどうお呼びすればいいのかしら…斎さん?」
「んー、りりたんでいいよ。斎さん、なんて、なんかくすぐったくて」
「…り、りりたん…いいのでしょうか…?」
「いいんだってば。ユウちゃんは、ユウちゃんでいいんでしょ?」

 わたしは慌ててうなずいた。

「じゃ、わたしもりりたんでいいよ。ね?」
「わ、わかりましたわ…。では、改めて、これからもよろしくお願いしますわ、りりたん」
「こちらこそよろしく、ユウちゃん!」

 わたしの差し出した手を、りりたんはきゅっと両手で握った。わたしをまっすぐに見つめて、あふれんばかりの笑みを浮かべる。
 思わず知らず、わたしも微笑んでいた。目の前のこの子と同じくらい、素敵な微笑みになっていればよいのだけれど。
 わたしの手を握る、りりたんの小さな手のひらは温かかった。

 りりたんと一緒に遊ぶようになってから、次第に、わたしにも、ひとり、またひとりと、お友達ができるようになっていた。りりたんのお友達は、なぜか女の子よりも男の子の方が多かったけれど。りりたんの幼なじみというアキトさんと、アキトさんのお友達のマサハルさんとは特に親しくなった。
 わたしがりりたんとドッジボールに参加して、相手の男の子たちを次々と打ち倒したり、みんなで運動場を鬼ごっこで駆け回ったりできるようになったころには、最初の頃のわだかまりなど、春先の雪のようにどこかへと消えてなくなっていた。
 幼稚園の裏山の森の木々が、その青々とした葉で太陽の光を一心に浴びるようになった頃には、わたしの周りにはたくさんのお友達がいた。
 太陽が頭の真上にのぼり、その太陽を追いかけるようにして入道雲がそびえ立つ、そんな夏の日が始まる頃には、わたしも幼稚園が好きになっていた。
 幼稚園に入りたての頃のいじけた自分なんて忘れてしまった。それでいいのだろう。

 でも、あの時、わたしの手を握り締めてくれた、あの小さくて温かな手だけは、決して忘れたことはない。




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